ALOHA-OTANIの日記

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母のこと Tさんのこと

先日、母の三回忌の法要をしました。

もうすぐ、もうすぐ母の命日です。

 

母が亡くなる前、おれは母とは疎遠になっていました。

お互い住んでいるところや電話番号を知らないというわけではありませんでしたが、本当に必要な連絡の時以外はほぼ何もやり取りがないような状況でした。

 

おれはTさんという人と付き合っています。

 

Tさんは旦那さんと死に別れた方で、おれは、Tさんとその家族との関係を途切れさせたくないので、Tさんとは婚姻という形は取っていません(再婚して元の籍を抜けると、戸籍上は元の家族と何の関係もなくなります)。

 

色々あって、おれの立ち居振る舞いが上手くなかった為に、おれの親とTさんとはあまり上手くいっていませんでした。

そしてある時、Tさんとおれの母親とは決定的に仲違うことになりました。

おれの気持ちの中では、互いの言葉の取り違い、すれ違いが大きかったとも思っていましたが、ここもやはり、おれの考えや立ち居振る舞いが悪かったと思っています。

 

そして、おれはTさんを選びます。

 

一時はおれも母を憎みました。

どうしてあんな言い方をしたんだ。

どうして一番悪いタイミングでなんとかしようと余計なことをしたんだ。

でもやはり結局は、おれが悪かったのだと思っています。

 

そして、おれの中では「本当はどちらも悪くない」と思いながら(恥ずかしながらもあえて書きましたがこれもTさんと母親と、どちらにも失礼なことと思います)、母より大切な人であるTさんに義理を立てる(これも失礼なことです)べく、母と疎遠になることを決めました。

 

たまに(必要な要件があって)掛かってくる母からの電話の中で、おれが少し柔らかい、軽い口調になった時の母の嬉しそうな応えには、申し訳ない、情けない、つらい気持ちになりました。

 

こんなことになって、全てに申し訳ない

 

と思っていました。

 

用事で実家の割と近くまで行った時も、おれは実家に寄ることもありませんでした。

それはTさんへの義理立てというよりはもう、こういう状況から目を反らしたいだけだったのだと思います。

 

喜ばれてもつらい。

泣かれてもつらい。

いっそ寄って、追い返されたなら楽になるかもしれないが、

決して、追い返す様な母ではないと分かっていたから、

寄れませんでした。

逃げました。

情けないです。

 

 

母が倒れました。

持病が悪化して、呼吸がしづらい、物をうまく飲み込めない状態です。

病院へ行く前に母がおれの留守電にメッセージを入れていました。

 

こういうことになったから病院に行く。入院することになると思うが、ちゃんと治療すれば良くなって退院できるから。そんな長く掛かるとは思わないから。

 

そういった内容を、少し呂律が回らない感じで言っていました。

 

その後、病院から、母が人工呼吸器を付けて重症ベッドへ入らなければならなくなり家族への説明が必要だという連絡が来ました。

もう父は亡くなっていました。

家族は私一人です。

 

Tさんは、「行ってきていいよ。行ってあげて。」と言ってくれました。

 

おれは病院へ行き、ドクターから説明を受け、母に会いました。

母は人工呼吸器を付けているので話せません。

身振りと筆談(これさえも大変そうな状況でした)で少しやり取りは出来ましたが、つらそうでした。

おれは「また来るよ。」とは言いましたが、時はコロナの真っ只中。

知人、友人はおろか、直接の家族である私でさえも、ドクターからの呼び出し、説明がある時以外はそうおいそれとは面会出来ない状況です。ドクターからは、この治療がうまくいけば、以前のような体調とはいかないかも知れないが、良くなって退院は出来る様になると言われていました。

 

そうして何度か面会した時、ドクターから、ちょっと違う話が出てきました。

 

持病が思うように良くならない中で今度は人工呼吸器の影響により心筋症が発症している、との話でした(これはドクターの不手際ではありません。おれも色々調べた中で、どうしても起きる場合があることだと分かっています)。

元の持病がなかなか寛解せず、人工呼吸器を取ることも出来ない。

そしてその為に、他の病気まで発症してしまいました。

後は、母自身の体力と運で、心筋症が酷くなる前に持病が寛解して人工呼吸器を取り外すことが出来るかどうか、「そこ次第」でした。

中々面会も出来ず、面会した時もおれの言葉に頷くか、寝ているか、意識が混濁しているか、そんな状況でした。

 

母の持病も良くならず、心筋症に対処する薬剤も限界まで増量しました。

もう母はずっと意識が無い状態でした。

 

そして、いよいよ危篤となった時、母は、取り付けられた機器はそのままに、重症ベッドから、個室ベッドへ移動となりました。

そこではおれも、ずっと母に付き添うことが出来る様になりました。

その意味は、もう分かります。

おれはずっと母の手を握り、話しかけていました。

 

そうしていたその晩、

まず一度、ナースが慌てて病室へ入って来ました。

心臓が停止したと。

ほんの少ししてまた母の脈は戻りました。

ナースは退室しました。

そして少ししてまたナースが来ました。

そして色々とした後、ドクターが呼ばれました。

そして、なにがしかのことをしてくれましたが、

母が帰ってくることはありませんでした。

 

覚えているのは、一回目にナースが来てから二回目の母が亡くなるまでの間、おれは母に、

わびることと懇願と、とにかく「母ちゃん」と呼びかけていた、それしかしていなかった、そんな様なことだけです。

もう亡くなるといった時に初めて、「ごめんな。」に続けて「ありがとう。」と言いました。

今さら。

 

母の魂(母ではなく、母の魂)はきっと、あの時以外もう二度と、おれがこうして付き添い、看取ってもらえる時はないというのを分かって、ここが一番「おれに迷惑を掛けずにすむ」と分かって、今がその時だと、全てを捨てて逝ったのだと思っています。

 

おれは不孝です。

 

色々なことが重なり合って、状況としてこうなってしまった、ということも含めて、そういったことを呼び寄せてしまったという意味も全てひっくるめて、不孝です。

 

おれは心の底から

「あらゆる意味において、子供は親に対して、何の責任もない」

と思っています。

 

だけど、そうであっても、そんなこととは関係なく、

おれは子供として、

不孝です。

 

生き方として、魂として。

不孝です。

 

そんなおれに、

せめてものこんな機会をくれた、

この、不孝者が不孝であることに気付かせてくれたTさんを、

おれは大切にしていきます。

 

行くなと言われたら、そして母のところへ行かなかったら、

おれはTさんも母も憎み続けたでしょう。

 

本当の孤独になっていたでしょう。

 

自分の不孝にも、Tさんと出逢えた本当の幸せにも気付かず。

 

母ちゃん、

ごめんな。

ありがとう。

 

Tさん、

ありがとう。

大切にします。